「弘法大師行状絵詞」八/十二巻・四/四段(傳成就院前大僧正杲守作)「神泉祈雨」
天長元年(824年)仲春の比、天下大に日照りす。公家勅を下され大師をして雨を祈らしめむとす。爰に守敏大徳、奏し申して云はく、「守敏、真言を學して同じく御願を勤む。我既に上臈なり。先ず承りて行なふべし」と。これによりて守敏に仰せて祈らしむるに七日の内に雨降ると雖も纔に京中を潤して未だ山外に及ぶ事無し。重ねて大師をして神泉苑にして請雨経の法を修せられしに(「大雲輪請雨經」「復次龍王。有陀羅尼名施一切衆生安樂。汝諸龍等常須讀誦繼念受持。能滅一切諸龍苦惱與其安樂。彼諸龍等既得樂已。於贍部洲即能依時降注甘雨。使令一切樹木叢林藥草苗稼皆得増長。」。「大雲經請雨品第六十四」に「若時無雨。讀誦此經一日二日乃至七日音聲不斷。亦如上法必定降雨。大海水潮可留過限。若能具足依此修行。不降雨者無有是處。唯除不信不至心者」)七日の間雨降らず、大師怪しみを為して定に入りて見給ふに、守敏呪力を以て諸龍を水瓶の内に狩込めたり。但、北天竺の境、無熱池の中に龍王あり、守敏が鉤召に洩れたりと御覧じて公家に申し受けて修法二か月を延べられしに、善如龍王、真言の奥旨を尊び祈請の懇志を感じて神泉池の中より其の形を顕はせり。金色八寸の蛇、長さ九尺ばかりなる虵(おろち)の頂に乗れり。実慧・真済・真雅・真紹・真暁・真然等の大徳、目の当たりこれを拝し給へり。自余の御弟子は敢へて見奉るに能はず。具さに事の心を記して公家に奏聞し給ふに和気真綱を勅使として御幣種々の物を酬へ奉りて龍王を供養し給ふ。密雲忽ちに靉靆として甘雨正に滂沱たり。池水湧き満ちて大壇の上に至れり。三日の間洪雨屢降りて普天の下炎旱永く休みぬ。上一人より下四元に至る迄首を垂れ掌を合はせざるは無し。真言の道崇めらるる事これより弥盛りなり。公家賞を行はれて直に少僧都に任ぜらる。奏辞し給ふ事再三なりと云へども恩詔頻りに下りて、是を許しましまさず。大師の給はく「この池の龍王、元は是無熱池の龍の類なり。慈悲有りて
人の爲に害心を至さず。何を以てか之を知る。御修法の此、人に託して之を示す。若此龍王、他界に移らば池荒れ水減じ世薄(せま)く人乏しからん。此時に至って門徒たらむ者須く公家に知らしめずとも私に祈願を加へ法味を奉るべし」と。
(大師二十五箇条の御遺告「亦た神泉薗池邊に御願に修法して祈雨するに靈驗其れ明かなり。上は殿上より下は四元(庶民)に至れり。此池に龍王有り。善如と名く。元是れ無熱達池の龍王の類なり。慈有って人の爲に害心を至さず。何を以てか之を知る。御修法の此、人に託して之を示す。即ち眞言奧旨を敬って池中より形を現ずる時、悉地成就す。彼の現ぜる形業は宛も金色の如くにして長さ八寸許の蛇なり。此金色の蛇、長さ九尺許の蛇の頂に居在せる也。此の現形を見る弟子等は實惠大徳并に眞濟・眞雅・眞照・堅慧・眞曉・眞然等也。諸弟子等は敢て 覽著難し。具に言心を注して内裏に奏聞す。少時之間に勅使和氣眞繩、御弊種種色物をもって龍王に供奉す。眞言道の崇きこと爾りしより彌起る也。若此池龍王、他界に移らば池浅く水減じ世薄(せま)く人乏しからん。方に此時に至って須く公家に知らしめずとも私に祈願を加ふべし。」)。
経の中に深意の薩埵利生の相を説くとして離苦法門に自在を得る故に阿耨達池の中に入り常に慈雲を興して衆生を蔭覆し鱗甲の中より清水を出して贍部州の有情類を済ふ旨これを載せたり。(孔雀經音義「花嚴經云。大地菩薩爲此池龍。於大悲雲蔭覆一切衆生離苦門而得自在。於鱗甲中流出諸水。日夜無竭。濟贍部州諸有情類。又無熱惱池者喩法身無生死熱惱也」)しかあるに彼の香山(龍門山)の天池を辞して密に華洛(都)の淤潭(おたん。深邃)に移りまします。尤も是慈念の誓ひに催され勧請の誠に応ふる故なるべし。誰の人か渇仰の思ひを凝らさざらむ。龍樹の論に云く「摩伽陀国に龍王あり阿波羅邏と名く。善心ありて化仏を受け世の飢饉を除くが故に常に膏雨を降せて其の國豐かなり。」(大智度初品中住王舍城釋論第五「阿波羅邏龍王。善心受化作佛弟子。除世飢饉故常降好雨。是故國豐」)。彼に准じて此れを思ふに我が朝の豊稔は専ら是神泉の神龍の威福に依るべきをや。しかあれば代々の御門、此処を崇められ年に亢旱の災起こる時は此の池を洒掃ありて祭奠を龍神に奉り大師の門徒を選ばれて修法の規儀を整へ給ふ。祖風相伝はりて弟葉違ふ事無し。青幡皁幕の室に満てる、海龍宮の荘厳を写し、宝炉玉盤の壇に連なる、雲輪殿の会場に似たり。闍梨穀漿を絶ちて法を修し、僧侶斉禁を保ちて経を転ず。日夜不断の軌則、国の為に誠を致し、法の為に疲れを忘れたり。中にも延命院の僧都元杲(げんごう)天禄三年(972年)の修法の時は某葉の龍形忽ちに門宇を穿ちて雲漢に昇り晴天を変じて洪雨を降しき。(祈雨日記、寛和元年「七月五日、巳刻参内、午後大雨水潦汎溢神泉、御修法今日結願・・此時知昔空海今元杲」)
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小野僧正仁海、長元年中(1028年から1037年)度々の懃修には度毎に赤蛇来たりて壇所に入り紫雲聳へて池上に覆ひ四望靉靆として普天霈霪(はいいん。長雨)せり(「小右記」「寛仁二年、六月八日、神泉御修法間、甘雨快降。弘法大師遺法験掲焉、阿闍梨仁海真言勝輩、今初修秘法、令降甘雨・・仁海霊験甚以掲焉也・・」」)其の後、成尊・勝覚・成宝・成賢等の英匠、皆紫闕の詔を含みて屢蒼天の感を顕はせり。具に載するに暇あらず。大凡太陽の災を止め率土の福を増し、人天倚頼し、龍神敬遵する事、秘密の加持に過ぎたるは無し。遠きを召き深きを釣む。これ人の篤信に応へて法の霊徳を感ずるなり。今この所を臨み見るに池浅く水乏し。恐らくは龍王他境に移り給へるかと疑ひつべし。しかあれども大師祈念の懇念により神龍慈悲の誓約朽ちずして未だ国を捨て給はざるにや。近き比をほひまでも、修法の請に与りし人、底露の精誠を抽んずる毎に甘雨の普潤を施さずといふ事無し。此の地、元は翰臨閣と名付けて聖主遊覧の砌なり。巌泉流れ涼しくして水、三伏の夏を消し松柏陰繁くして風一声の秋を留む(和漢朗詠集卷上 夏 納涼「夏の日閑にして暑を避く・源英明」「池冷やかにして水に三伏さんぷくの夏無し。松高うして風に一声の秋有り」)。歌堂舞閣の基、柏梁の昔の跡を写し(柏梁台とは、前116年、漢の武帝が長安の西北に築いた高さ数十丈の楼台。梁に香柏を用いたのでこの名がある)朱閣紫殿の構、驪宮の古き例を習ふ。歌吹の声絶ゆる事なく詩酒の遊び興を催しき(長恨歌・白楽天「・・・驪宮高き処青雲に入り、仙楽風に飄りて処処に聞ゆ・・」)。大師修法の後は龍神潜宅の処となりし故に代々の帝王これを崇め家々の賢臣これを敬ふ。然るに後鳥羽院下り居させ給ひてより、此の所殊に廃れ荊棘の跡を閉つ゛るのみに非ず。猪鹿の蛇を害するを放たる。流鏑(りゅうてき。矢を射る)の声護法の聴を驚かし、飛蹄の響き冥衆の心を騒がしくす。是を見る緇素恐れ嘆かずといふ事無かりき。承久の大乱の後、武州の泰時、国憲を助けし時、崇敬の誠を致し築垣を固くし門戸を固め、永く雑人の往来を止めしかども、其の後、涼燠(りょういく。歳月)屢改まりて門墻漸くに傾きしかば、今は只牛馬の牧に等しく行人の通路となれり。定めて知りぬ龍神の冥慮喜びず。大師の玄鑑安からざらむか。君とし臣として治世の籌を廻らされ早く修理を加へて崇重し給ふべきをや。此の所を治められば国家治まるべきが故に事の意を知らむ人、行有らむも行無からむも、須らく祈請を致して法楽を増すべし。豈報国の忠に非ざらむや。
(神泉苑は、平安時代末期から荒れ始め、鎌倉時代には後鳥羽上皇によって一時復興された。承久の乱以降、再び荒廃してしまい、東寺百合文書には無法地帯と化した様子が記されている。)